昭和46年02月07日 朝 御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 「此方」これは、金光大神御自身の事ですね。「此方は参ってたずねる所がなかった。」と、「何処へ参っても、方便でお願して、神がものを言うてくれる所がなかった」と、またの御理解にもありますように、「ただ一生懸命お願して、帰るばっかりだったろうが」と、「氏子はおかげを受けて遠路のところを」という所から、また( ? )( ? )言う事はここでは、たずねる所がなかった、ここではいわゆる信心とは、どういうものか?と、またおかげとはどういうものかと。
 その信心を身に付けて行く事のためには、おかげを受けていく事のためには、「こういう信心をしなければならん」と、まあそれこそ、噛んで含めるように教えておられる、(?)という所を参って来るけれども、信心していわゆる「信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ」とこう(  ?  )この「身しのぎをするようになれ」という所なんですけれどね、教祖様のお弟子の中に女の先生、高橋とみえという先生がおられますが、大変な御神徳を受けられた、お方であったらしいですね。
 その方の、お話になったものか書き残されたものかどっちか忘れましたが、此の方が言っておられるに、その頃の言葉で、私共がね若い時に、信心さして頂く頃にはね、「すぐに皆が身しのぎが出来るようになった」とこう仰る、今頃は「学問、学問」と言うて、あまり学問が先にたちますから、身しのぎをする信心信者が、少のうなりましたと、言うような事をあります、ですからそこでは身しのぎと言う事は、言うならいちいち神様からお知らせでも頂くというかね。
 自分で自分の事ぐらいは、おかげが出けるように、昔はなりよった、それもこの頃は、学問が先にたってね、理屈やらはよう覚えますけれども、身しのぎをするような信者は少なくなった、とこう言われる、もうその、教祖様の御時代の時なのですから、今頃なおさらのこと、やはり、その理屈やら、学問が先にたって、身しのぎ、そういう意味においての身しのぎという事も、出来なく段々なって行く、「もう手みくじなどは、すぐに頂きました」と言うておられますですね。
 手みくじというのは、拝まして頂きながら、手に神様が色々現われて下さる、「昔の信心はそうだった」と、高橋とみえ先生はね、西六の明神様と、言われるほどしの御神徳を受けられた方のお話なんです。だからそういう意味においてですね、まあ身しのぎ「徳を受けて身しのぎをするようになれ」と、言うのはそう言う様な、ことでもあろうと思います、けども、私は今日皆さんに聞いて頂こうと思うのは、私は本当の意味においての、「身しのぎ」ね。
 本当の意味においての、身しのぎの信心とはどう言う様なことだろうかと、例えば子供が何人もおります、まあ学校も出した、仕事も教えたと、まあ家分れをしたと、家内も持たせたと、もう(?)をさせたらあちらの親が、いちいち面倒見てやらなくても、もう結構あれでもやって行くと、やはりそういう、言わば見通しが着いた時に、親は「もうあの子には」というやれやれ、安心をする事が出来る訳です、「あれはもういっつも金ばっかり借りに来る」とか。
 「仕事もよう覚えんし、本当にまあ何時になったら親が安心出来るだろうか」という、様なものではなくてですね、「家は家分れもした、財産も分けてやった、自分で結構、あれなら、財産を減らしはするまい」と、例えば「親が安心が出来る」と言う事、「もう、あの子は、自分で自分の事はやって行けれる」いわゆる、「あの子はもう、身しのぎが出来るようになったから」と、親が安心するような意味においての、私は「身しのぎ」ね、ですから、皆手みくじを頂く。
 とか神様からお知らせを自分で頂いたとか、頂くとかと言ったような、言わば小さい範囲じゃなくてです「もうあの氏子は、もう大丈夫だ」と、「あの信者はもうあれだけの信心を頂いたから、もう大丈夫だ」と天地の親神様が、安心して下さる程しの、信心を私は「身しのぎの信心」と、今日はここで「徳を受けて、信心して徳を受けて」とおしゃるのは、そう言う事だ、ここへ参ってたずねる所此方は参ってたずねる所がなかったが、皆はここへ参って来る。
 ならここで、合楽の場合ではならば、この徳を受けるための信心を、言わば明けても暮れても、説かせて頂いて、みなさんに分って頂こうと一生懸命努めておるわけなんです。どうでしょうか、「自分こそもう神様から安心してもらっておるだろう」と言う様な、信心の自信を持っておる方があるだろうか。立教神伝の最後の所に、「神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子繁盛いたし末々、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。」
 そう言う、言わば信心が身についた時こそ、初めて神様が安心して下さるのではなかろうか、「神も助かり、氏子も立ち行く、末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」という信心、そういう信心が分かったただけではなくて、それを行じて行けれる信心、なかなかね、これは金光様の御信心の、この辺の所が、まあ言うならば、独壇場的 なところなんですよね。「神も氏子も、共々にいわゆる信心共栄、共に栄えて行こう」という、私共がどれだけ。
 例えばなら、億万長者になって、「おかげ頂いた」と言うてもね、それが金光教で言うおかげじゃない、ね、そこでそこまで行く色んな信心の過程として、例えば昨日の御理解のを見てみますと、滝本常子さんと、滝本常子と言う、姓名から、頂きましたね。「滝本」「滝」と言うのは「修行」それがもう信心の根本だという。「常子」それがもう、常平生の事、常の事としてです、修行がもう常の事としてです、言うなればね「一生が修行じゃ」とおうせられる。
 「一生が修行じゃ」というものが、身に付くと言う事、それを少し具体的に、頂いたのが、あの田代幸子さんっち言うたですねぇ、おかげのおかげが受けて行けれる、受け物を持ってゆけば人間の「さちこ」と言うのは、「幸の子」と書いてある、しかもその田代幸子さんが、共励その日の前の晩の壮年の会に、その共励会にみえておるところで、「おそうなりました」と言うてからみえておる、とお知らせを頂いて。
 昨日の御理解を頂いたね、人間が本当に幸福になってくれると言う事、と言う事をですね、修行が、言わば、常のものとして、又は何時もこれはまぁ家族だけの事じゃないけれどもです、家族が何時も、言わば夫婦なら夫婦が、信心の共励が出来れるような、又は求めて止まない共励をしながら、求めて行こうとする、そういう姿勢これは夫婦だけではありません、又親子だけでもありません、信心友達同士が、会うたら信心の共励が出来る、そういう生き生きとした信心の姿勢。
 それがおかげの、受け場いわゆる受け物である、しかも常に修行を常の事としての、信心修行が出来ておると言う事、もういくつになるまでと言うかね、「あぁ何時まで朝参りば続けんなんじゃろか」と言った様なものではないと言う事、それはもういよいよ、もっともっと有り難いものに育って行く、行くような信心、と言う様な事を昨日を頂きましたですね、今日は「古賀新二」と頂いた、古賀さんの名前ですよね、久留米から菊栄会の、古賀さん、古賀新二とは「古い、賀び」と書いてあるね。
 古はふるい、賀は和賀心の賀、賀正の賀、新は新しく、信心のね一番尊いものはね、なるほど、「三年、五年の信心は迷いやすい、十年と信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ」とこうおしゃるほどしのですね、まぁだ迷いやすい家庭にあるのでは駄目、それがもういよいよ間違いのないもの、いや自分で自分の心を拝め、またはまつれれるほどしのもの、これが十年が、二十年、三十年たって行くにしたがってです、その言わば、古い信心によってですね。
 年季を入れたと言うん、のでしょうかね、信心に年季が入っておる、そこから生まれてくる喜びがです。何時も新にね、新しい息吹と言うかね、雰囲気を持っておらなければならない、信心のいわゆる、マンネリと言う事を言われますね、いわゆる信心の老化現象が現われてくるような事ではです、神様はね安心して下さらん、「はぁなかなかよか信心してももう有り難い、有り難いって言いよったが、この頃段々おかげ頂いて、成程財産の方はでけていったけれども、喜びもだんだん。」
 いわゆる、更な喜びとか更な信心、というものが消えて来た、これで神様が喜んで下さるはずがない、そう言う信心になって行けば行くほどに、まぁ私は思うのに、年をとって行けば行くほどにです、その信心の喜びというものは、いよいよ有り難いものになって行かなければならんのに、だんだん信心、年をとって行くにしたがって、寂しゅうなって行くような信心では駄目だ、と言う事そのためには、ならどういう信心をさして、どういう、言わば、経路をたどらせて頂いておる信心なら安心か、と言う事を。
 昨日壮年会で、皆さんが発表された中から、永瀬さんの例を取りましたですね、永瀬さん達夫婦が、朝参りをされるもう二十年間、まぁ言わば続いておる、始めの間ははぁなるほど、助けてもらいたいばっかり、言うならばおかげを受けねばならない事であったと、決して夫婦の仲がならばその、仲の良いという夫婦ではなかった、もうこれもこのまま、もう夫婦別れしなさるとじゃなかろうか。と言うような所もあったと、信心させられる家庭においてところが、その五日の壮年会の時の、永瀬さんの発表がです。
 別にもう平凡な表現、平凡なお話であったけれどもです、別に何これと言うてです、願うとか、頼むとかじゃないけれども、信心が段々夫婦の者が楽しゅうなって来ている、しかもね、ますますこの迫力がでけて来たこと、「はぁどうでんこうでんお父さんおかげを頂かないけんいっちょがんばりましょうや」と言った様な物ではなくてです、「信心の有難さがだんだんだんだん分からして頂いて、ただ有り難いのが、そう、お参りをさして頂く、そういう形に表して行かなければ居られないと言う事が。
 有り難い」という発表をしておられました。こういう信心になって行く時です、私は信心、「はぁこの氏子は、もう大丈夫」とまではいかんにしてもです、「はぁこのまま育って行けば大丈夫」と神様は思うておられると思うね、なにかもう、こりゃぁもう火が付いた様にガアガア言わにゃん時は、しっかりお参りもする、修行もするけれど、さあそこを通り抜けると、信心が言わばうすうなって行く、(?)だけは、一通りの事が分からして頂いて、いわゆる神を使うこつあいだけは覚えている。
 いわゆるおかげを頂くこつあいだけは覚えている、そして「神から使われる」という、ところの信心が、生まれてこない、おかげを頂いとる内に時々はお礼参りをしたり、お礼の御用をしたり、まぁ言うなら、その程度の事になってくる、いわゆるあいよかけよという事になって行かない。最近、私の昔の信心友達の方で、年配もあんまり変わりませんが、時々お参りになられる方があります、もう髪がこう禿上がってしまわれましてね、もう、本当にまぁおじいさんのような感じ、いわゆる信心がね。
 寂しゅうなってると言う事、髪と言う事は、信心の信と言う信に頂いてる、それが髪がだぁんだんぬけて行ってから、禿上がってしまいよる、歳を取るにしたがって、先月のお月次祭の日に申しましたけれども、何時も信心は平年でありたいね、もう改まることの上にでも、言わば修行の上にでもです、何時でもそこん所に言わば、自分の信心の焦点を、置いて行くような、いわゆる「未完成のまま永遠に」と言った様な、言葉を使ってお話しましたですね、そういうものがね。
 内容になかなければ、神様は安心して下さらん、神様が安心して下さると言う事が、今日は「身しのぎ」という所ですね、私共の信心が身しのぎ、その方がですね、そりゃあもう、その方が、あの親子さん達が、もう大変その、教会でおかげを頂いてもう大変な御用のでけた方達です、ご自分も、もう十分御用がでけられた、だから、「神の用をたしゃあ、氏子の用は神がたしてやる」とおしゃるから、一生懸命御用さしてもらうから、自分達の用は、神様がたして下さるほどしのおかげを受けて来た。
 けれどもそれはそれだけでしょうが、神の用をたしゃ徳をやると仰ってない、「神の用をたしゃあ、氏子の用は神がたしてやる」と仰るだけその当時、いわゆるもう二十何年前に、私はもう顔を合わせりゃ信心のお話をしておったという時代、先日参って見えてから、「先生私はまだあなたが、御信者時代に、あなたから言われた事が、あのこれだけはもう、どうも忘れられない事がある」「今に分からない」と言われる、「どげんこつだったでしょうか?」と と聞いてみると。
 「○○さん神様に使われっぱなしになんなさりますな」っちあなたが仰った事を、「あれはどういうことだったでしょうか」「今でもまだ分からない、二十何年になるけれども」とこう言う、「神様から使われっぱなしになりなさりますな」その時にその意味が解っておられたら、今頃はそれこそにぎやかな、有り難い、というおかげに、信心に育っておられた事であろう、今にまだそれが分からんと言われる、神様に成程御用がでけた、でけるから神様はおかげを下さる。
 それだけではいけないっち、段々歳を取るにしたがって、寂しゅうなって行きよんなさるというような感じなんです、このままだんだんおそらく子供にも、信心が伝わらせんのじゃなかろうか、とさえ思われるくらい、そこで、私共の信心がです、信心して徳を受けて、身しのぎをするようにならせて頂けれる信心を目指さにゃんと、それがね段々信心が解らしてもらい、有り難うならしてもらう、その有り難うならせてもらう事がです、「内にはじっとしてはおられん」と言う様な、働きになってこなければ。
 昨日も申しましたように、永瀬さん達なら夫婦がです、「もうお前がいくつまで、いっちょ朝参りばしようじゃないか」っち言うようなもんじゃなくてです、恐らく「手足のかなう限り、この朝参りだけは止められんね」と言うような、私は内容ではなかろうかという風に思わしてもらう、「有り難いと思うとります」と言うても、寝床の中から「有り難うございますと思うとります」と言うのと、有り難いと思うとります事がです、さぁ「この寒を突いてでも、お参りさしてもらわなければおられん。
 しかもならこの寒修行なんかは、もう親先生が、御神前に出られる時には、自分達もお参りしとかなければ」と言った様な勢いというか、そういう信心同じ有り難いと思うとりますでも違うでしょう、有り難いと思うとります、というにもピンからキリまでなんです、だからそういう信心が育って行く時です、私は神様が「はぁこの調子で信心が育って行ってくれるなら、この氏子は大丈夫だ、安心がでけるぞ」とまあ、心ひそかに喜んで下さる、そういう氏子の上に、神様が御信用を下さらないはずがない。
 そういう氏子の上に、御神徳を下さらんはずがない、御神徳がいよいよ身についてくれば、これはもういよいよ、有り難いものになってくる、いわゆる歳を取るにしたがって、それこそ位が付いてくるのである、歳を取るにしたがって、有難ぁくなってくるのである、そういう信心を、私は、身しのぎの信心だと、いう風に話を聞いていた頂いた。「身しのぎ」というのはです、「もうあれも、一本立ちが出来るようになった」と親が安心してくれる喜んでくれる、それが身しのぎだという風に今日は申しました。
 信心に置いても同じ事、「もうあの氏子は、身しのぎが出来る」私は皆さんに本当にお願して、お願してでも、ここんところを分かって頂きたいと思う、歳を取るにしたがぁって心がね、にぎやかになっていく信心、歳を取るにしたがって、「これが位が付いていきよるとじゃろか」と自分で思われるように、有難ぁくなっていく信心、しかもその有り難いのがです、いわゆる「滝本常子」である、何時もその修行と言う事、がですその有り難いものが、そう修行をさせてもらわなければおられない。
 修行の楽しみが身に付いて行くという信心、此処へ参ってくる氏子が、ならここでもそうでしょ、その事ばかりを、明け暮れ説かせて頂いておるんでしょ、「信心して徳を受けてくれ」ということなんです、「信心しておかげを受けてくれ」じゃない、そして分からせていただく事なんです、それが「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く道である」「氏子繁盛いたし末々親にかかり、子にかかりあいよかけよで立ち行く」という言うならば、「親のものは子のもの。
 子のものは親のもの」と言うほどしに、親のものと子のものとのさかいがないほどしのです、おかげなんです、そういう信心になって行く限り、いよいよ有り難うなって行くのであり、にぎやこうなって行く心がにぎやこうなって行く、訳なんです。「自分が修行でけんでも、神様の御恩だけは一生忘れんから、神様も安心しておって下さるだろう」なんていう、ような思い方ではいけない、自分がはたしてだんだん歳を取って行くにしたがって、有り難ぁくなって行けれる、信心になっておるのか、心が段々にぎやぁこなって行くような、おかげの元、土台がでけて行きよるか。
 自分が有り難いと思うておるその有り難いがです、こう表さなければおられないというような信心に育って行きよるか、信心が十年立ち、二十年立ちする内にです、巧者にはなって行くけれども、その喜びがです、更な喜びになっていく子が信心になって行かない、とするなら、あなたの信心は必ず寂しゅうなる、歳を取って行くにしたがって、という事になるんです、古い信者さんに限って、修行がだんだん出けなくなって行くという、これならばもう、過去に於いて私共が知っておる。
 おかげを言わば落としていかれた、又は寂しゅうなっていきよるなさる人達と、同じ事なのですから、ここに私共がもう一遍、自分達の信心を、思い直さしていだいて、本気で自分の信心を反省させて頂いて、更な信心から、更な喜びを求めての信心、修行が有り難うなってくるという信心、そういう信心を、ならさせて頂くと言う事、信心はそうだと、思い込ませて頂く信心、このまま信心が育っていきゃ、いよいよにぎやこうなって行く、有り難うなって行くという、言わば、自信の持てれる信心。
 それにはね、自分の頂いておる信心が何時も、新たな感覚で、夫婦だけじゃない、家族中だけじゃない、人にも共励し励まし合い、練りおうて行けれる様な信心姿勢、というものが、出けて行く、そういう内容が育って行く事を、楽しみに信心して行かなければいけない。「此の方は参って尋ねる所がなかった」「はぁあそこんにきがもう一押し」「もうちっと解りたい」という信心しよっても、それがありますよね。教祖様が教えて下さっておる事の中にはそういう内容を持っておるけれども。
 それをうんなら本当にその、神意をね分らせてくれる者が、段々なくなって来た、ところが私は有り難い事には、ここではねそれがね言わば、追求するならば求めるならば、それに必ず神様が応えて下さるほどしのおかげが頂けれる、今こそね合楽では私は信心を、本当に体得しておかなければ、例えばなるほど沢山な、御理解集がでけて行きよる、あれを、ひもといて見ただけでは、分からない事が沢山ある、どういう意味か、私がおる間に、皆さんがそれを追求して下さるならば、今なら分る教祖の神様が。
 「この世に話にして残しておくのぞ」と、仰ったこれでも、分からない事ばっかりなのである、信心を進めていきよると、これはどういう意味だろうかと分らん事ばっかり、そのどういう意味だろうかと言う事がです、ここでは分からせて頂く事が出来ると言う事、その事を一つ皆さん思うていよいよ、信心して徳を受けて行く事を楽しみに、身しのぎがでけて行くようになる事が楽しみ、そこで身しのぎとは、神様が「もうあの氏子は大丈夫」と喜んで下さり、安心して下さるほどしの、信心を今日は「身しのぎ」という風に聞いて頂いた、どうぞ一つ身しのぎの出来れる信心を頂いてもらいたいと思うですね。
   どうぞ。